アルバム'05


1号展望台から
1号展望台から
1号展望台から西を望む 左の塔は「PL平和塔」
グリーンロードから東を望む
グリーンロードから東を望む
南河内グリーンロードから東を望む
 
 このあと平石城址までの間に「アカハゲ古墳」と「塚廻り古墳」があったのだが見落としてしまう。
 
 
平岩城址
平岩城址
 この城跡の歴史は14世紀までさかのぼる。1331年(元弘元年)、幕府打倒を目指す後醍醐天皇の求めに応じて楠木氏が挙兵した。その際、この辺りにいた豪族・平岩茂直(ひらいわしげなお)もその動きに呼応し、築いたのがこの城である。同年には平石峠を越えて河内に向かおうとする幕府軍を相手に、茂直がここで防戦した。
 
山の頂上の広さは約600平方メートルほど。城跡の石碑が残されている。周辺は崖のようなきつい斜面になっている。また、平らな所には、出丸があった。
二子塚古墳
二子塚古墳
 推古天皇陵の南東200mに位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有している。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰を充填塗布している。
 
 また蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められている。地元には本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがある。
 
 近くには親子が丸で只の石のように遊んでいた。子供に声をかけると反応してくれる。都会では警戒されるところである。
推古天皇陵
推古天皇陵
 日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせた。
 
 推古天皇陵は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられている。太子町には、同様に1つの墳丘に2つの石室をもった古墳として、西約500mに位置する葉室塚古墳が知られている。
 
 近くの科長神社南側の小高い丘の上に、古くから「小野妹子の墓」と伝えられる小さな塚がありる。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物。
 
 妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、池坊流の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されている。


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