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寺内町は、修行者、文人墨客来訪の地でもあった。 町場は各地から人の集まるところであるから、身分を隠して住むには都合が良い。幕末には天下の志士が身を隠し、各方面に連絡するのに格好の地であった。長州の志士吉田松陰は諸国遊歴の途中、
嘉永6年(1853年)富田林の仲村家に滞在し、その後肥後熊本の藩士松田重助や生野義挙の中心人物、筑前の平野国臣も安政の末、富田林に隠れ住んで、昼は寺子を教え、夜は私塾を開いていた。その影響で文久3年(1863年)天誅組大和義挙に参加する者も出た。
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釣鐘は春季祭(証秀上人・開基祭)と秋季祭(親鸞上人・報恩講)、除夜の鐘で鳴らされている。
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応永年間(1394−1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。永禄3年(1560年)に京都・興正寺第14世証秀上人が現在地に移建。
浄土真宗(一向宗)の寺院で、地元の人から「御坊(ごぼう)さん」と呼ばれ親しまれている。
寺内町はこの寺院を中心に宗教自治都市として形成された。 南河内地方の商品集散地の中心として栄えた。
城之門筋に表門を開き、鐘楼・鼓楼を構え、本堂・客殿・庫裏などを配する。表門は桃山調の高いもので、もと桃山城門のひとつが興正寺に寄与されたものをここに移建したと伝えられている。
写真の本堂は、寛永15年(1638年)再建。江戸時代には寺子屋として利用され、現在の市立富田林小学校の前身である。戦前には開基祭に小学生が学校から参拝し菓子を配り、通りには出店が開いて祭りが催された。
第2次大戦中、大阪市内の平野国民学校の学童疎開受け入れを行った記録が残っている。
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