アルバム'04


04/1/24 大黒天
04/1/24 大黒天
蓮台山八浄寺:心・身の裕福を授けるみ寺
 
大黒天(裕福の紙)
 
ご詠歌:打つ槌に宝の雨をふらしつつ無福の民を救う御神
 
大黒さまのお持ちの「ふくろ」は「福労」と呼ばれています。苦労をいとわず、かってでて、その積み重ねをためこむための「ふくろ」です。この「ふくろ」から心・身ともに裕福な人生が右手の打出の小槌をうち振ることによってあふれ出るのでございます。大黒様の「打出の小槌」は”怠け心””よこしまな心””弱い心”などの”邪悪な心”を打ち振って、人の迷いを晴らします。
 
縁起:応永年間(1394〜)心了法師阿弥陀如来造立に創まり、延宝年間に盛「上人、円融山浄満寺を中興された後、八幡神社別当寺の平松山八幡寺と合併して、八浄寺と改称される。秘仏開運大黒天は、不動明王の霊示により示現なし、霊威広大にして、多大の奇端をあらわし、心・身の裕福を授けるみ寺として賑わう。殊に七福神霊場の総本院として我が国唯一の瑜祇七福之塔が聳え、宇宙の霊妙なるパワーが体感できる。
 
04/1/24 大黒天
04/1/24 大黒天
04/2/28 三木・森林公園
04/2/28 三木・森林公園
ウッディ広場のクラフト館前
 
70回 04/2/28(土) 神戸電鉄・三木上の丸駅→ナメラ商店街→上の丸公園・
             三木城址・金物資料館→掘光美術→雲龍寺→市役所→
             総合公園→森林公園→明盛街→本要寺→観光協会→
 
             ナメラ商店街→(昼食:ながさわ)→(上津橋東詰)→本長寺→
             昔の街並→えびす神社→永久橋→竹中半兵衛の墓→
             平井山本陣跡→神戸電鉄・恵比須駅
 
神戸電鉄新開地駅集合となっていたが、地理に疎い人は迷うかもと思って早めに現地へ行き、ホーム前の広場横の喫茶店から見張っていた。今日は大谷リーダーが不参加でその代行役を仰せつかったのだが、最初からの気苦労で今更ながら過去の幹事の苦労が偲ばれる。予定通り粟生行準急に乗車、皆さん神電に乗るのは久し振り(中には
 
始めて?)とみえてローカルな雰囲気にも満足気、約50分で三木上の丸駅着 ナメラ(滑原)商店街を少し入って左(東)横から三木城址(上の丸公園)に上る。往時の面影は殆ど無いが以前訪れた時よりもかなり良く整備され遺構維持に努力の跡が伺える。羽柴秀吉による「干殺し」という凄惨を極めた「三木城攻め」で兵士や農民の命と引き換
 
えに一族とともに自刃した城主別所長治の「今はただうらみもあらじ諸人の命にかはる我身とおもへば」の辞世の歌碑や三木合戦の説明板を読んで当時を偲んだ後に隣の金物資料館へ、大工道具など古き良き時代を懐かしみながら堀光美術館を経て別所長治夫妻の首塚がある雲龍寺に詣でたが寺院が意外に荒廃しているのが気になった。
 
思いのほか立派な市役所を横目に総合公園・森林公園へ、その前に両公園の間にある三木山公園に上がって周囲の景観を楽しむ。市民の憩いの場としてさらにその西側のホースランドパークと併せて山林を造成して造ったというだけに広大な相当な金を掛けたと思われるほど立派、その割には土曜日でもあるのに人が少なかったが、そろそろ
 
空腹を抱えて「ぶつぶつ」言う奴を宥めながら街中へ、別所長治の首検分をし秀吉が最後の本陣としたという本要寺を観て人通りの少ない閑散としたナメラ商店街を通って昼食目標の「ながさわ」到着、この辺では団体が入れそうなのは此処ぐらいと聞いていたが成る程満員で少々待たされたが8人で大ビール3本とまあまあの定食でやっと落ち
 
着く。昼からは湯ノ山(有馬温泉)から三木まで三木城攻めで何回も作戦行動を起こした道で以来参勤交代や湯治客が往来したという「湯ノ山街道」で情緒ある古い街並を歩いて秀吉の片腕で三木城兵糧攻めを考案した竹中半兵衛が守って陣中で病死した平井山本陣を目指す。往復1時間余りの道程であったが半兵衛の墓に参ってから本陣へ、
 
山といっても少し登るだけで本郭へ、その後ろを覗くと垂直の切り立った崖で半兵衛の構えた砦、さもあらんと感心。帰りは上の丸駅から一つ手前の恵比寿駅から16時6分の普通でやっこら、喉を堪えながら帰心矢の如く三宮へ。北野坂通りに最近出来たという「以心伝」なるチェーン店に飛び込む 本日最初の客 店長から「飲み放題・食べ物4品
 
3000円」で誘われ一同首を傾げたが、今日一番の呑み助(園田の人は不参加)がOK(小生はヤバイと思った)、懸命にアルコールを注文したがどうやら500円近くは損して店長にしてやられた感じ 寄る年波には勝てず 次回からは〜放題は絶対に止める事。三木地方は古代から美嚢川流域を中心に開け戦国時代には別所氏が城を築き城下町
 
も造った所で戦略的・産業的にも重要な土地で秀吉はこれも片腕であった黒田(小寺)官兵衛に姫路城を薦められなかったら三木を西国の防御拠点と考えたほど注目に値する場所であった。秀吉は三木城が難攻不落とみて周囲30余箇所に付城(つけしろ)なる砦と多くの土塁を巡らせて別所氏を支援する毛利軍からの人員・武器・兵糧を防ぎ
 
三木城を干殺しにする作戦を取って落城させた。現在その付城の遺構が着々と発掘整備されつつある。城に関心を持つ人には垂涎の地であろう 小生もまだ数箇所しか訪れていない。今後時間を掛けて訪れようと思う(約32千歩)
 
「兵の雄叫び残る三木の森」
 
・一面トップ:松本被告に死刑 東京地裁判決「極限の非難に値する」オウム 全13事件を首謀(毎日)
 
【世話人付記】今回は世話人不参加につき、案内役をお願いした斎藤さんにしたためて頂いた。案内共々臨場感溢れる紀行文多謝。また、写真は田付さんに労を取って頂いた。なお、今回から高山さんが正会員になられました。 
04/2/28 三木城址
04/2/28 三木城址
城主別所長治公像
 
秀吉による三木城攻めは、凄惨を極め、城主別所小三郎長治は兵士や領民の命と引き換えに一族とともに自刃したという歴史を秘める。城塀に囲まれた本丸跡に「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と記された長治公辞世の歌碑があります。
 
毎年5月5日には三木城跡を中心に市内各所で長冶公を偲び、三木の大恩人として後生に長く語り継ぐための行事として別所公春まつりを開催しています。
04/2/28 長治公歌碑
04/2/28 長治公歌碑
長治公辞世の歌碑


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