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臂岡天満宮・白髭稲荷社:此処への南からの旧道は先の教善寺(北村)から鋳物師(いもじ)への参拝路に当ります。此処に台地からの瀧場の名残があります。
瀧場:この近辺では、
〔1〕猪名野神社の台地下にも瀧があったようですが、今は地蔵が丁寧に守られて、昔の天王町・三本松遊里の傍に当ります。江戸末期に輿鹿(与鹿)は遊郭で金がなくなり食客になっている造酒屋・岡田家から届けさせたとの事です。
〔2〕鋳物師から500m余り北の久代(くしろ)神社には、今も絶間なく流れている瀧場が残っています。臂岡天満宮は、太宰府へ左遷される途中の藤原道真が、臂を付いて休んだとの謂れにより命名されたとの事。
参道の石柵の名前:
「小西酒造」や「米蒸・よねむす」小西酒造(白雪)に勤められ、総務部長や西宮工場長をしておられた人も同系。「大路・おおじ」教善寺住職も同系。北村〜鋳物師に多い旧家。「坂上,阪上・さかのうえ,さかうえ」元国会議員亀井派の阪上善秀(よしひで)「宝塚市長も同系」などが有ります。
この神社の本殿右側の祠の横に、伊丹廃寺の柱石が説明もなく、無造作に転がっています。(前回の呉服神社でも、そうでしたが、謡曲「呉羽」の謂れが松ノ木の傍 に在ったのですが、更に、織姫塚の説明板も失われていました。経済優先で、各地で由緒の場所が不明になりそうです)
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伊丹廃寺跡(国の史跡):昭和44年まで「伊丹市北村字鋳物師南良蓮寺」という地名でした。自衛隊中部総監部の敷地内も寺域で、遺跡が発掘されました。北良蓮寺は、此処より北西、今の総監部の五叉路の対角線上の場所のようです。良蓮寺は戦国時代の後も近世まで覚えられていたようですが、その後、埋没していました。
昭和33年に畑の中から水煙がみつかり、発掘調査が始りました。水煙は市立博物館にあります。飛鳥時代の法隆寺形式の七堂伽藍で、奈良時代の東大寺大仏創建にも寄与した行基菩薩も、この寺や昆陽寺は、布施屋を設け貧者を救済していたようです。鋳物師は、寺院や仏像建設に必要な渡来の鍛冶で、その昔に、鋳物師千軒があったそうです。
因みに、堺市長であった土師(ハジ,ハゼ)さんや、木曽や伊勢などに多い木地師なども渡来の技術集団の流れです。忍者・服部半蔵は織女の流れ。
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