アルバム'07年


蘆山寺
蘆山寺
 ここを訪れたのは16時過ぎ。将に門が閉じられようとしていた。ここの庭を期待していたのであるが、楽しみを先に残しておこう。
 
 蘆山寺は、938年(天慶1)延暦寺中興の祖、元三大師良源が開基。皇室とのゆかりが深く、天明の大火(1788・天明8)で失った堂宇は、皇室の援助で復興。紫式部の邸跡で、源氏の庭、お土居などが残る。宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなむ節分行事‘鬼法楽’は有名。圓浄宗本山。建立:938(天慶1)年。
梨木神社
梨木神社
 寺町通から御所に入る右側にある。最初、見過ごして御所にてしばし休憩のあと気づく。
 
 「なしのき」と読む。1885年(明治18)創建、明治維新の功労者三條実万・実美父子を祀る。手水舎の井戸の‘染井の水’は京の三名水の一つ。ハギの名所でもあり、9月の中旬〜下旬には萩まつりも。上田秋成や湯川秀樹らの歌碑もある。建立:明治18年10月6日。10月10日 例大祭。
下御霊神社
下御霊神社
 「上御霊神社」はパスしたが、ここも市街地の中にあり、もう少しで見過ごすところであった。
 
 「しもごりょう」と読む。御所の鎮守として御霊八所神を祭る。貞観5年(863)、神泉苑御霊会に始まり、下出雲路に創建、2度移転したが1590年(天正18)豊臣秀吉の寺社整理に伴い現在地へ。本殿は寛政期に仮皇居の内侍所(賢所)を、表門は仮御所の建礼門をそれぞれ移築。5月第3日曜日の祭日には神幸列神輿の巡幸がある。
 
 8月17・18日の例祭には御神楽・東遊の奉奏がある。建立:貞観5年5月20日。
 
 ところで、このあと「高瀬川一之船入」を訪れる予定であったが、大勢が河原町へと急ぎパスすることとなる。
本能寺
本能寺
 ここでは午後5時頃。残念ながら門は閉まっていた。意外とここを訪れた方は少なく、楽しみを残しておいたのか。
 
 本能寺は、1582年(天正10)明智光秀が織田信長を攻め、自害させた「本能寺の変」で知られる。1415年(応永22)日隆聖人によって創建。「本能寺の変」当時は四条西洞院のあたりにあったが、焼失後、1589年(天正17)3月、秀吉の命令により現在地に移った。信長の供養塔がある。建立:創建1415(応永22)年、現在の本堂は1928(昭和3)年の再建。平成10年10月、寺宝展示場オープン。
109回 山の辺の道・北前半
109回 山の辺の道・北前半
集合写真撮影を失念し 村上さん撮影の写真を借用
 
 109回 07/5/26(土) 近鉄天理駅→天理教→石上神社→豊日神社→白川ダム→弘仁寺→柳茶屋→正暦寺→柳茶屋→円照寺→円照寺バス停
       
 今回は、室生寺(石楠花)・長谷寺(牡丹)を予定していたが、両方とも遅過ぎてここに変更する。近年どの花も早咲き気味とは言え見通しの甘さを恥じる。きょうは覚悟をしていた雨天中止も杞憂に終わり皆んな驚くばかり。折角の五月晴れも生憎の黄砂に覆われ残念であった。参加者は10名といつになく少数で、持参の酒4Lを持て余した。
 
夜の部で活用し、お陰で勘定が安くあがったのは有り難かった。「山の辺の道南コース」は、現役当時に第8回・97−1−18とOB第18回・99−10−31と2回に亘り足跡を残しているが、北コースはおそらく皆さんも初めてではなかろうか。当初、一日でと思ったが、歳も重ね無理は禁物と今回は北コースの更に南半分に留めることにする。
 
 さて、天理駅から石上神社までは南北同じルート。ここから袂を分かつことになる。殆どの方は南へ。北コースは少数派である。それでも道標も要所要所に確りしていたのは意外でもあり助かった。予定になかった日本清酒発祥地「正暦寺」へ足を伸ばしたこともあり、約16km28千歩と最近にはなく足が棒になった1日だった。(約28千歩)
 
「天辺に皮の残りし今年竹」
 
・一面トップ:不明年金 時効撤廃し全額支給 与党方針 領収書なしも対応(朝日)


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