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ここは予定にはなかったが、希望者が多かったので立ち寄った。きょうは「月並祭」とかで、どおりで駅から商店街まで大勢の信者と出会った筈だ。
本部神殿の中央の地点「ぢば」は、人類創造の地であり、ここに参拝することを「おぢば帰り」と云う。親なる神と、その教えを伝え広めた教祖を慕って“帰って来る”信者たちのために、市内には百数十に及ぶ宿泊施設(母屋、詰所)が建ち並び、近代建築でありながら、入母屋造・瓦葺という独特のスタイルで威容を見せている。
年十数回の祭典には全国から信者が帰り集い、人口7万余の市内は、その何倍もの人々によって非常な賑わいを呈す。
創始は天保9年(1838年)10月26日。大和国山辺郡庄屋敷村(現・天理市三島町 天理教教会本部の所在地)で、中山みき教祖の口を通 して親神様(天理王命)がその教えを説いたのが始まりといわれている。
みきは、寛政10年(1798)4月18日、同郡三昧田村(現・天理市三昧田町)の前川家の長女として生まれ、文化7年(1810)に中山家に嫁いだ。美しい心と善行で人々から敬愛されていた彼女が、神の啓示を受けたのは41才のときだった。
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写真慣れしているのか、ポーズをとってくれた。
石上(いそのかみ)大神の祭神は、布都御魂(ふつのみたま)神 布留御魂(ふるみたま)神 布都斯御魂(ふつしみたま)神。配祀は、宇摩志麻治(うましまじ)命 五十瓊敷(いにしき)命 白河天皇 市川臣。
主祭神の布都御魂神は、また佐土(さじ)布都神ともいい、神代に武甕雷神がおびていた霊剣で、平国之剣(くにむけのたち)ともいわれる。「記紀」によれば、神武天皇御東征の時に天降られ、邪神を破り、国々を平定された威徳により、物部氏の遠祖、宇摩志麻治命をして、宮中に奉斎された。
のち崇神天皇七年、物部の伊香色雄命が大臣の職にあった時、詔により天社(あまつやしろ)、国社(くにつやしろ)を定めて八百万神を祀らしめられて、布都御魂神と共に石上の高庭の地に祀られ、石上大神と称えたのが、石上神宮の創めである。
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駅からここまでは、「山の辺の道の南コース」と同じ。道を尋ねられても、行き先を確かめる必要がある。
永保元年(1081)白河天皇が鎮魂祭のために宮中の神嘉殿を移建せられたものと伝えられ、その構造は壮重雄健で全国に現存する拝殿では最古のものである。文明2年(1470)貞享元年(1684)享保18年(1733)元文5年(1740)寛政10年(1798)安政6年(1859)の修復、上葺等による棟札六枚と共に国宝に指定されている。(国宝)
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「神武天皇遥拝所」の碑
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社殿まで参られたのは このお二人のみ
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