アルバム'07年


西国街道
西国街道
 平安時代、都と大宰府(だざいふ)を結んだ山陽道の江戸時代以後の呼称。市域は下河原字出口から池尻1丁目までで、昆陽は宿場町となり、本陣(大名、公家などの旅館)が置かれていました。(伊丹市HP)
教善寺
教善寺
 教善寺(北村):浄土真宗・興正寺派の寺院。伊丹廃寺が織田・秀吉軍に攻められ消失する前に、阿弥陀如来像を救出して安置。そのため仏像に比べ本堂が小さい。大路(おおじ)住職によると本堂に比べ仏像が大きいとの由。伊丹の地名の由来や酒造の盛んな頃の話などをユーモアを交えた説明と法話を拝聴する。
 
「いたみのさけけさのみたい」の回文は長い部類とか。土田さんによれば、他に「イタミノサケ リクツヲツクリ ケサノミタイ」(伊丹の酒 理屈を作り 今朝飲みたい)も有るそうです。お茶ばかりでなく、お菓子まで頂いたのには恐縮した。
 
戦国時代と御坊の関係
〔1〕阪急塚口駅・東北側300m・荒木村重ゆかりの塚口御坊・正玄寺(塚口城)も
興正寺派。
 
〔2〕前回の小濱宿(こはまじゅく)・毫摂寺(ごうしょうじ)は、小濱御坊と呼ばれ、
浄土真宗・出雲路派であったが、後に本願寺派(西本願寺)となった。やはり、
戦国時に消失し、後に再建された。
 
〔3〕伊丹台地には、豊中市の阪大の南丘に本願寺派の刀根山御坊・常楽寺があり、
これらの三ケ寺は戦国時代に真宗系の砦ともなり、信長の石山本願寺合戦には、
摂津地域の門徒衆が駆けつけた。
大路住職
大路住職
 本堂の仏像は足元が埋まっていて見えないため、写真でのお披露目。足元が埋まっていたので、阪神淡路大震災にも損傷を免れたとか。
教善寺
教善寺
伊丹廃寺跡出土礎石
多田街道
多田街道
伊丹郷町の「北ノ口」から川西の多田神社への参詣道
 
教善寺はこの道沿いにありこちらが表門


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