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坂越浦城は、但馬の山名宗全が、嘉吉の乱で滅んだ赤松氏に変わって播磨を支配した、享徳年間(1452〜55)に築いたといわれている。
赤松氏は、その後旧臣の石見雅助、間島雅元、中村太郎四郎らが、南朝方に奪われていたの三種の神器を取り返した功により、加賀の守護として復興した。
応仁元(1467)年に勃発した応仁の乱では、播磨の守護山名宗全が西軍の総大将に、加賀守護の赤松政則は東軍に加わった。
政則はこれを機会に旧領の播磨・美作・備前を回復し、置塩城を本拠に定めた。
政則には、置塩城の義村、鶏籠山城(龍野城)の村秀の2人の子供があった。坂越浦城はこの村秀によって、対立する祖父則定が那波城に拠って那波港を支配するのに対抗してこの城を築いた。
江戸時代には、赤穂藩の御番所が置かれ、坂越浦に出入りする船の監視をしていた。(出典:帝國博物学協会)
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