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江戸時代前期(延宝6年、1678)に、摂津国西成郡の北中島地域(東淀川区・淀川区・西淀川区)に属する22か村の農民らが、悪水と滞留水を海に流すために、自力で開いた排水路である。このあたりは、淀川・神崎川・中津川に囲まれた低湿地で、古代から水害に悩まされ、悪水抜きの大水道はぜひとも必要であった。村村は団結して代表者を江戸
に送り、幕府負担による「公儀普請」の嘆願を重ねたが、逆に「百姓普請」を命ぜられ、資金約2,000両のほとんどを地元で負担して、この付近から此花区伝法5までの全長約9.5km、幅平均22mの大水路を、約50日で完成させた。そのため主唱者3名が自害したという義人伝説さえ生まれた。この水路は明治32年の淀川改修まで立派に機能し、
長く住民に恩恵を与えたが、現在は市街地化に伴い道路などに形を変えている。
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祭神宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)ほか。白雉(はくち)2年(651)長柄豊碕(ながらとよさき)宮遷都のとき創建と伝えるが不詳。ただ建武(けんむ)2年(1335)製の木製額が残されている。足利氏や豊臣氏が特に崇敬したが、大坂冬の陣で古記録は殆ど焼失した。神楽殿・絵馬殿など多くの社殿があったが、これらも今次大戦で失われた。
なお境内からは、弥生中期の壷が出土している。
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