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会員・ゲストの紀行アルバムです
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初代五郎兵衞は、伴傳兵衞家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商った。やがて、呉服・太物など取扱商品を増やし、江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど活躍した。 現在も、東京日本橋室町に近三商事株式会社として営業中。
なお、市立資料館の一部である歴史民俗資料館は、かつて森家の控宅。
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ここも資料館と共通の入館券にて入れた
西川(利右衛門)家は屋号を大文字屋と称して蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えた。現在資料館として入館できる施設は3代目によって宝永3年(1706年)に建てられたもので、昭和58年1月に国の重要文化財に指定され、昭和60年10月より33ヶ月の工期を経て、改修された。
昭和5年に後継者が無いまま11代目が亡くなり、約300年にわたって活躍した西川家は終焉を迎えまた。西川家の家訓は「先義後利栄・好富施其徳」。義理人情を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、得られた富に見合った人間形成を行えと説いている。
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豊臣秀次が八幡山のふもとに城下町を開いたとき、当時の交通幹線であった琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるために設けられた運河が八幡堀である。
かつて帆を立てた商船が往来し、商人らの熱気に満ちあふれていた。そんな八幡堀も一時期は荒れ果て埋め立ての計画まで進められていたが、青年会議所をはじめとする地元有志の運動により、ようやく今日の姿を取り戻すまでに至った。
現在では、町の代表的な観光名所として位置づけられ、時代劇は年間30本以上のロケが行われている。
なお、八幡堀は、このたび国の「重要文化的景観第一号」に指定された。
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明治10年に八幡東学校として建築された白雲館は、当時の金6千円で設立されたもので、貴重な擬洋風建造物。近江商人が子どもの教育充実を図るためその費用の殆どが寄付で賄われた。
現在は観光案内所が設けられ観光情報の提供や、土産や特産品も展示販売されている。また、2階フリースペースでは、市民ギャラリーとして各種催しが開催されている。
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