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田ステ女像
田ステ女は、元禄の四俳女:の一人で、寛永10年(1633)柏原に生まれたステ女は、6才の時「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」の句を詠んだと伝えられるなど、幼い頃からその才能を発揮している。自ら書き綴った「自筆句集」には200以上の句が収められており、当時から名の知れた女流俳人だった。
19才で、継母の連子の季成(すえなり)と結婚し、五男一女をもうけ、その後も夫とともに俳諧を続けている。
42才のとき夫に先立たれたステ女は、出家し第二の人生を送ることを決意した。剃髪したステ女は、京で盤珪永琢(ばんけいようたく)と出会い弟子になると師の寺・龍門寺がある姫路の網干(あぼし)へと移り住んだ。網干では名を貞閑と改め、龍門寺に程近い不徹庵(ふてつあん)の庵主を勤めるなど、尼僧達の中心的存在となり、元禄11年(1698)66才でその生涯を閉じた。
松尾芭蕉とほば同時代を生き、俳諧で名を知られたステ女は、後半生を尼僧として暮らし、次第に俳諧から離れ和歌を多く残している。
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葉月十五夜
「いつかいつか いつかと待し 希ふ能月」 希ふ能=きょうの
ステ
自筆による
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校名の由来は藩校の「崇廣館」から
コスト第一でなく景観への配慮が嬉しい
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長屋門
江戸時代前期の荘重な遺構
陣屋の正門として正徳4年(1714)に建造され、門の両袖が長屋のように仕切られているため長屋門と呼ばれている。
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柏原藩主織田家の公邸
元禄8年(1695)に大和宇陀から柏原へ国替になった織田信休は、正徳4年(1714)に幕府の許可を得て陣屋を造営。文政元年(1818)に焼失し、再建されたものの明治維新の後に解体されて、現在では当時の約5分の1、旧表御殿の部分だけが残っている。国指定の史跡。
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