アルバム'08年


青谷梅林
青谷梅林
 青谷梅林の起源については、あきらかでないが、後醍醐天皇の皇子宗良親王の歌に「風かよふ綴喜の里の梅が香を空にへだつる中垣ぞなき」とあることから鎌倉末期ごろはすでに梅林のあったことが知られる。徳川時代に淀藩から梅樹栽培の奨励を受け、大いに植樹されたと伝えられる。
 
明治23年(1890)伏見宮文秀女王が来臨され「青谷の梅咲きたりとここかしこ人まち顔に鶯の鳴く」とうたわれた。明治33年(1900)青谷梅林保勝会を設立して梅林の保護と宣伝につとめてから、花見客は多くなり名勝地となった。
 
 「青谷山の梅を見にゆきて白雲の上に立つかとあやしめば梅なりけりとかほる山風」(加藤里路)
 
 現在、およそ20ヘクタールの面積に梅樹が植えられており、主な品種は城州白(梅菓子・梅干用等)、白加賀(梅酒用)、オタフク、ダルマ(小梅)青軸・鶯宿・玉英などがある。毎年6月から7月にかけて約120〜130トンが収穫される。また、2月から3月にかけては約1万本の白梅が咲き誇り青谷は大きな白布を広げたように白一色となり、どこまでも梅の香につつまれる感じになる。
青谷梅林
青谷梅林
咲いていたのは上の白梅とこの紅梅ぐらいであった
青谷梅林
青谷梅林
村上さん提供
 
上のズームアップ
黒土一号墳
黒土一号墳
古墳時代後期のもので、南北約30メートル、東西約26メートルの楕円形の円墳。石室全長は約9.5メートルで、南山城地方で最大級の石室。
中天満神社
中天満神社
 中天満神社は旧中村の産土神(うぶすながみ)である。急な石段を登ると、「おかげ」と書いたのぼりが描かれている、大きな絵馬が目に入る。幕末の慶応3年(1867年)11月に、中村の住民によって奉納されたもので、府内でも数少ない貴重な「おかげ踊り」の絵馬の1つ。


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