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初代 伊藤博文
嘗ての千円札の面影より田舎っぽい
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大会議室(約600席)
ここのあと、昼食のため元町へ向かっていると、途中に中華料理店があった。入ってから分かったことだが「よみうりテレビ」の日曜22:30からの「大阪ほんわかテレビ」の「昼ごはん」のコーナーで紹介された店だった。「ビールと餃子のセット」が安かった。
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昼食後、高速神戸鉄道の「花隈駅」へ向かう途中に、ここへ立ち寄る。
花隈公園は、花隈城築城から400年以上経った現在、その跡に市営駐車場が整備され、その上に公園として生まれ変わったもの。 ポートタワーをはじめ神戸の街並みも見渡せる市民の憩いの場として親しまれている。
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公園の中には「花隈城趾」と記された碑が建っており、かつてここに城があったことを伝えている。 この碑は、1928(昭和3)年に池田輝政の子孫で、岡山池田家の当主の池田宣政侯爵が建てたものだが、 阪神・淡路大震災で根元から折れてしまった。写真の碑は復元されたも。
明治以降の、文明開化の華やかな歴史をもつ港町神戸にも、戦いに明け暮れた戦国の歴史の足跡が感じられる。
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「花隈駅」からひと駅目の「高速神戸」で下車。徒歩1分でここ「湊川神社」に着く。
楠木正成(大楠公)は、後醍醐天皇の目指す親政を阻止せんとする鎌倉幕府の勢力や、また武家の政権を新たにたてようとする足利尊氏と戦い、正義と忠誠を示した。しかし、延元元年(1336年)5月25日、この湊川の地で足利軍と戦い、殉節した。
以来、この誠忠の大楠公を慕い、地元の人々は大楠公の塚(墓)を大切にしてきた。墓は豊臣秀吉検地の際、免租地とされた。そして元禄5年(1692年)に水戸光圀公(義公)が大楠公の墓所を建立した。この墓所の建立後は、さらに多くの人々が墓前に参り、大楠公の遺徳をたたえた。
幕末から維新にかけて大楠公の神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、当時の金で千両という大金を下した。こうして明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。
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